フジタ 【藤田】レベル7
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日本姓氏語源辞典
大阪府、兵庫県、北海道。続いて東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、京都府、愛媛県、茨城県。
①合略。藤原の略。兵庫県豊岡市日高町上郷では藤原氏の後裔が「藤」を残して平安時代に称したと伝える。藤原参照。岡山県倉敷市新田で伝承あり。称した時代は不詳。宮崎県東臼杵郡門川町川内では熊本県菊池市に1070年(延久2年)に居住した藤原氏が菊池姓を称した後に藤田姓にしたと伝える。菊池参照。同地では現在地に居住後に伊藤姓を一時期称して1665年(寛文5年)に藤田姓に戻したとの伝もあり。同地では家紋は下がり藤。伊藤参照。静岡県榛原郡川根本町下長尾の小字の久保尾(伝承では久法)にある阿弥陀堂は京都府京都市から来住した藤原氏の後裔の藤本氏が1441年(嘉吉元年)に施主となっており、分家も「藤」を残して称したと伝える。藤本参照。三重県いなべ市藤原町山口にある浄土真宗の善長寺を戦国時代に創建した藤田氏は南北朝時代の武将である楠木正行の妻が称していた内藤姓の「藤」と池田姓の「田」から称したと伝える。楠木参照。内藤参照。池田参照。岐阜県関市保木口では滋賀県東近江市君ヶ畑町から1579年(天正7年)に藤原氏の後裔の藤田氏が来住したと伝える。岐阜県美濃市片知で滋賀県東近江市君ヶ畑町の出との伝あり。山口県下関市豊浦町大字川棚では藤原氏、菊池氏の後裔と伝える。山口県萩市堀内が藩庁の長州藩士、山口県下関市長府宮崎町が藩庁の長府藩士、奈良県大和郡山市城内町が藩庁の郡山藩士、岐阜県大垣市郭町が藩庁の大垣藩士、福島県相馬市中村が藩庁の相馬中村藩士、福島県二本松市郭内が藩庁の二本松藩士、宮城県仙台市青葉区川内が藩庁の仙台藩士、青森県弘前市下白銀町が藩庁の弘前藩士、東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣に江戸時代にあった。同藩士・同幕臣に藤原氏の後裔との伝あり。茨城県桜川市真壁町上谷貝、茨城県常陸大宮市鷹巣、佐賀県唐津市鏡では藤原氏の後裔と伝える。岩手県奥州市の胆沢では明治新姓時に藤原姓から改姓したと伝える。
※石川県白山市鹿島町では藤兵衛の屋号で農業に従事していたと伝える。推定では江戸時代。藤兵衛の「藤」は推定では藤原氏から。
※石川県野々市市太平寺では藤屋の屋号を使用して江戸時代に称したと伝える。推定では藤屋の「藤」は藤原氏から。
※新潟県柏崎市大広田では丸に上がり藤の家紋で江戸時代に農業に従事していたと伝える。
②埼玉県大里郡寄居町藤田発祥。戦国時代に記録のある地名。同地で平安時代に称したと伝える。兵庫県加東市藤田は経由地。鎌倉時代に記録のある地名。地名は藤田氏の人名からと伝える。静岡県浜松市中央区馬郡町で伝承あり。栃木県栃木市西方町本城が藩庁の西方藩主に安土桃山時代・江戸時代にあった。
③福島県石川郡石川町中野付近(旧:藤田郷)から発祥。平安時代に記録のある地名。
④地形。藤と田から。徳島県美馬郡つるぎ町貞光宮内では明治新姓と伝える。新潟県南蒲原郡田上町羽生田では平氏の後裔で農業に従事していたと伝える。推定では江戸時代。平参照。江戸時代にあった門割制度の藤田門から。門の位置の例。鹿児島県いちき串木野市大里、鹿児島県日置市東市来町長里。門による明治新姓。善隣。奈良県桜井市豊田に分布あり。
※新潟県燕市熊森では富山県砺波市付近(旧:東砺波郡)の藤田からと伝える。時代、位置不詳。
※徳島県三好市池田町州津藤ノ井は記録時代不詳の地名。同地では草分けと伝える。
※岩手県一関市花泉町老松藤田は記録時代不詳の地名。同地に分布あり。
※山梨県南アルプス市藤田は戦国時代に記録のある地名。地名はトウダ。同地に分布あり。
※大阪府守口市藤田町は江戸時代に記録のある地名。地名はトウダ。同地に分布あり。
※岡山県久米郡美咲町藤田下は戦国時代に「藤田」と呼称した地名。同地に分布あり。
※福岡県久留米市荒木町藤田は江戸時代に記録のある地名。同地に分布あり。
※大分県臼杵市佐志生藤田は江戸時代に記録のある地名。地名はトウダ。同地に分布あり。
※宮城県角田市藤田は経由地。戦国時代に記録のある地名。地名は藤田氏の居住によると伝える。
⑤地形。鹿児島県の奄美群島の一字姓である藤に「田」を追加。推定では1953年の日本復帰時。鹿児島県大島郡徳之島町亀津に分布あり。同地に藤姓あり。藤参照。
⑥合略。藤津と大田の合成。山口県山口市嘉川では藤津家の分家が大田家の養子となって称したと伝える。伝承からの推定では明治新姓。藤津参照。大田参照。
⑦コリア(朝鮮・韓国)系。複数の起源の全体における推定での比率は1%以下。佐賀県唐津市(旧:東松浦郡相知町)で1953年3月13日に帰化の記録あり。本姓は張。帰化の初出。張参照。東京都文京区で1954年3月24日に帰化の記録あり。本姓は裵。裵参照。他姓もあり。
⑧コリア(朝鮮・韓国)系。潭田の異形。奈良県奈良市で1989年11月20日に帰化の記録あり。「潭田」ともあり。本姓は田。田参照。